今日の自分分析の実例は、M子さんです。38歳の女性です。

 

 大変仕事がよく出来る方です。一方、結婚もして子供もほしいという気持ちがあります。

 

 最近、疲れ切って、ついに休職する状態になりました。何が問題だったのでしょうか。自分分析してみましょう。


 4人兄弟の長女で、親からは、しっかりとしたお姉ちゃんであることを求められました。親は、下の子供に手がかかっていました。


 親の愛が欲しい自分(N)が強くあります。


 親の愛を得るには、しっかりと生きるという親の希望を果たさなくてはなりません。仕事も立派にしないといけません(K)。

 

 ご本人は、「認めさせたいなどとは思っていません。ただ、自分の存在価値を認めてほしいだけです。」と言われます。しかし、競争社会で認めてもらうには、人よりもよい仕事をしなければなりません。本人は意識はしていなくても、存在価値を認めさせることと同じになります。これを受け身のK(PK)と呼んでいます。


 結婚や子供も欲しいというのは、何でしょうか。世間体が気になります。親の愛を得るには、世間体が大事です。そうであれば、Nです。

 

 老後の孤独が辛いというのなら、これもNです。

 

 老後の経済的な不安というのなら、これはOです。

 

 性的な満足もというのならTです。

 

 親や子供の笑顔を見たいというのなら、Sです。


 M子さんの場合、PKは、親の愛と承認を貰うための手段です。止む得ないKです。本心ではありません。

 

 KとNは、葛藤し新型ストレスですが、本当にKが好きで好きでたまらないという人を見たことはありません。深く心の底を見ていけば、M子さんのように、欲しいのは、親の愛と承認であって、Kは手段ということが殆どです。止む得ないKであり、悲しいKです。

 

 しかし、止む得ないKであったとしても、愛と承認を貰うためには、人よりも立派な仕事をし続けなければなりません。

 

 初めは規模も求められる水準も低いですから、どんどん進めます。しかし、段々、規模も大きくなり、水準も高くなります。うまく行かなくなります。しかし、それでもどんどんやる以外にはありません。

 

 それ以外には、愛と承認を貰う方法を知らないからです。充実感も生命力も落ちてきて、客観性もなくなって失敗します。それでも、やるしかありません。さらに失敗しますが、それでもやるしかありません。ひどい時には、過労死やうつ病に至ります。


 しかも、結婚や子供のことも考えなくてはなりません。親の愛と承認を得るには、世間体も大事なのです。自分の老後を考えると、自分にとっても欲しいものです。


 しかも、親の笑顔を見たい自分もいます(S)。自分のことだけなら、まだ我慢をすればなんとかなるということもあるでしょうが、親を喜ばしてあげたい自分がいる場合は、本当に大変です。


 これは、過酷です。男性の場合は、仕事さえ出来れば、家庭を守ってくれる奥さんをもらうことはそれほど難しくないでしょうが、今の日本で、仕事をする女性が、主夫を得ることは容易ではありません。
 

 どうして良いか分からなくなります。何をしてもうまく行かなくなります。


 しかし、おかしなことが起こっているのではありません。自分分析で見ていけば、起こるべくして起こっていることです。


 解決は、ふとした優しさの自分です。

 

 KやWやTは、社会の中で出せば出すほど嫌われて自滅のシナリオになります。

 

 一方、NやOやSは、それで生きようとすればするほど、自分を押さえることになり、窒息感が強まり、やはり自滅のシナリオになります。

 

 しかし、ふとした優しさの自分は、どんなに生きても自分です。自分を犠牲にしてはいません。しかも、優しいのが好きです。相手や周りの人にも優しくしてあげられます。自分も含めて、皆が良くなるように、幸せになれることを考えることができます。


 もし、ふとした優しさの自分があって、その自分が好きなら、とても嬉しいことです。人生の問題を根本的に解決できるからです。

 

 ただ、ふとした優しさの自分は、「ふと」したものです。その自分を生きるためには、育てなければなりません。優しさを生きるための方法や能力を持たなければなりません。トレーニングが必要です。


 それが、かぎりなく優しい心身医学のトレーニングです。生かされてる医学的事実と、頭をカラッポにする丹田呼吸法と、現代人の心の分析法(自分分析)です。

 

 



 自分分析の初歩的な当てはめからやってみましょう。自分分析は、心を7つに分けて当てはめていきます。

 ご飯のために社会適応する自分(O)、愛や評価を貰うために良い子になる自分(N)、快楽したい自分(T)、W(自由気ままに生きたい我がままな自分)、K(人に自分の存在価値を認めさせようとする自分、ブライドの自分)、笑顔を見たい自分(S)、ふとした優しさの自分です。 それでは、実際の当てはめをやってみましょう。7つの自分の当てはめです。

 主婦A子さんは、最近、イライラとすることが多くなりました。

 O(ご飯を得るために、自分を抑えて、社会適応する自分)・・・夫は、特に問題も無く会社に勤めています。人並みには、出世もしていますので、生活の不安はありません。Oは、満たされています。

 T(快楽したい自分)・・・適当に美味しいものも食べられています。特に、不満はありません。

 N(評価や優しさが欲しい自分)・・・家事をやっていても、夫や子供達からは、当たり前という感じて、感謝をしてもらえません。これは、淋しいです。Nは満たされていません。

 W(自由気ままに生きたい自分)・・・結婚の初めから、自由気ままに生きたい気持ちは、あまりありません。むしろ、安定した家庭でありたいと思ってきましたから、Wの問題ではありません。

 K(自分の存在価値を、人に認めさそうとする自分)・・・いつも、夫や子供たちから、軽視されているように感じます。私の存在価値って、何なのかと思ってしまいます。私は、お手伝いさんでも、召使でもないのです。これには、腹が立ちます。

 S(人の笑顔を見るのが嬉しい自分)・・・夫や子供たちの笑顔を見るのは嬉しいですが、軽視されているのではないかと思うと、ムカムカします。瞬間、Sかもしれませんが、すぐに消えてしまいます。Sは、別に欲しくありません。

 当てはめてみると、A子さんは、NとKが満たされていないと言うことになります。

 評価や優しさがもらえなくて、淋しいのであれば、もっと、優しく親切にすれば良いのです。自分を捨てて、夫や子供に、つくせば良いのです。

 しかし、それは、Kが許しません。プライドが許しません。

 一方、Kを満たそうとするなら、我慢をしないで、強く出たり、自分を主張すれば良いのです。しかし、それをすれば、嫌われて、孤立と孤独になるので、怖いです。

 孤立と孤独になるのが怖ければ、おとなしく、Nをすれば良いのです。評価と優しさがもらえます。

 しかし、それでは、プライドが傷つきます。私のことを何と思っているのか、そう言いたくなります。

 しかし、それを言えば、孤立と孤独になります。それは、嫌だから、Nをすればと思うのですが、プライドが許しません。

 この繰り返しが、延々と続きます。

 どうにもできなくて、イライラします。

 KとNとの葛藤は、新型ストレスです。

 A子さんのイライラは、このネックから来るものではないかということが、当てはめから見えてきます。

 解決は、ありません。この深刻さを理解することです。

 新型ストレスには、解決の方法がないということを本当に理解できたら、かぎりなく優しい心身医学の価値がお分かりになるでしょう。

 



 

 自分分析は、心を7つに分けて当てはめていきます。

 

 ご飯のために社会適応する自分(O)、愛や評価を貰うために良い子になる自分(N)、快楽したい自分(T)、W(自由気ままに生きたい我がままな自分)、K(人に自分の存在価値を認めさせようとする自分、ブライドの自分)、笑顔を見たい自分(S)、ふとした優しさの自分です。
 

 それでは、実際の当てはめです。
 

 B子さんは、結婚する予定です。相手の方は、大きな会社に勤めておられ、優しい良い方です。B子さんの心は、どう動くのでしょうか。

 

 Oが満たされる・・・大きな会社です。正社員です。給料が高いから、ご飯の心配はありません。将来、出世もされるでしょうから、さらに、給料は上がり、退職金、年金も確実でする。安心できます。嬉しいです。

 

 Tが満たされる・・・年次休暇はたくさんある。ハワイに行って、泳いだり、美味しいものが食べられます。性的な欲求も満たされるでしょう。嬉しいです。

 

 Nが満たされる・・・大きな会社ですから、世間体は、すこぶるよろしいです。世間から良い評価がもらえ、親や家族からも、愛と優しさがもらえるので、嬉しいです。

 

 Wが満たされる・・・親からいつも縛られて自由が無かったので、実家を出て独立できます。もう親から縛られなくて良いので、嬉しいです。

 

 Kが満たされる・・・高校時代に、自分よりきれいで、成績も良くて馬鹿にしていた同級生たちのご主人は、小さな会社です。同級生たちに勝てました。夫からも、「君は、世界で一番素晴らしい、僕の宝物だ。」、などと言われて、自分の存在価値を満喫できます。これは、溶けるほど嬉しいです。

 

 Sが満たされる・・・夫の笑顔を見るのが嬉しい。優しい自分を感じます。ただ、これには、注意が必要です。もし、夫が、優しくしてくれなくなったら、倦怠期に入って、自分に無関心になってきたら、会社で、失敗して、昇進できなくなったら、会社が倒産して、生活が困るようになったら、その時も、笑顔を見たい、それだけで、幸せと言えるでしょうか。

 

 今回の場合も、人により、どれが満たされるかは、さまざまです。一つだけではなく、二つ、三つの心が、動く人もあるでしょう。全部あって、その時その時の状況で、あるものが強く出るという人もいるでしょう。

 

 いずれにせよ、今、動いている心を当てはめていきます。どれが良いということではなくて、さまざまな自分がいることを、まず知りたいのです。

 

 さまざまな自分の当てはめができれば、どの自分を満たすために、この結婚をしようとしているか分かります。

 

 その自分で良いのかということと、その自分を満たすためなら、もっと他に、確実な方法があるかもしれないということと、では、自分の本心は、何なのかということを考えることが出来るようになります。

 

 特に、結婚の場合は、取り返しがつきません。自分分析が出来て、自分の本心を知る能力がついてから、どうするか決められるのが良いと思います。

   性格グラフの点数は、

 

 A6点  B16点 

 

 C16点 D14点

 

 E4点
 
 さわやか指数 37点

 

 不快指数   40点
 


  この方は、一見「行け行けさん」ですが、A(きびしい親)が極端に低すぎます。充実感テストも「無感動さん」です。
 
  この方は、本来はE(評価を気にする子供)が高いのですが、「強くありなさい」という親からのメッセージを受けていて、「行け行けさん」になろうとされたのです。

 

 「行け行けさん」になるためには、E(評価を気にする子供)を切り捨てなければなりません。そのとき、A(きびしい親)があれば、人間関係を悪化させます。それはE(不安)を高めることになりますので、極端にA(きびしい親)を下げるという操作をされているということで「仮面さん」です。

  このように「仮面さん」には、もとは「不安さん」が多いように思います。「不安さん」は、「人の評価を気にする人です」、何かをしようとしても、「どう思われるだろうか? 悪く取られないだろうか?」と気になり、なかなか行動を起こせません。

  思い切って行動すれば、今度は、どう思われたが気になり不安になります。夜もなかなか寝られません。「こんなことの繰り返しで人生が終わるのか」と思うと、自分が嫌になります。そこで、「もう一切気にすることは止めよう。ずぶとく生きよう」、そのように決心する人が現れてきます。たしかにそうです。

  気にしてばかりでは、何のための人生か分かりません。世の中をみれば、ずうずうしく生きている人もたくさんいます。そのような人の方が成功しているではありませんか。「もう、こんな自分とは縁をきろう」、そう考えたとしても、なるほどと納得のいく話です。

  しかし、一般的にいって、「不安さん」が「行け行けさん」になることは成功しません。自分を主張したり、思い切って行動しても、不安が増えるばかりです。振り払っても、人の目は消えません。突出すれば、した分だけ人の評価にさらされます。

  良い評価を得ることが、「不安さん」にとってなによりの安心ですから、自分を主張したり、自分の好きなように行動することは、わがままになることですから、評価が下がります。身も心も、疲れ果てるだけ、これが普通なのですが、なかには「行け行けさん」に成功する人もいます。

  その場合は、不安を抹殺することになります。悪い言葉で言えば、突っ張る、いなおる、ということになります。長年にわたって、持ちこたえてくると、ある程度身につきます。一見、エネルギッシュで、豪放とまではいかなくても、精悍なタイプになります。

  しかし、本来の「行け行けさん」とはやはり違います。不安をおさえ、突っ張っているのが、本人にすら分からなくなっていても、常に緊張があります。不安がでようとすると、すぐに押さえなければなりません。

 決断力や社交性もそんなにないのに、熟練しているように演じなければなりません。リラックスできません。ゆったりとすれば、不安が芽を出します。不安がでると、仕事の指示を求められても、すぐに対応できません。そのために、いつも身構えて、すきのないようにしなければなりません。

  昼だけではありません。昼は目の前のことに集中していますが、睡眠中は現実から解き放されるので、過去の不安がでてきます。これでは、夜もゆっくり寝ていられません。不眠になり、疲れます。昼も夜も自律神経系が過度に緊張し、ストレス一杯になってきます。

 「仮面さん」を見抜くことは、極めて大事です。しかし、「仮面さん」の発見は、なかなか難しいものです。

  特に難しいのは、永らくそうしてきたので、自分でも仮面とは感じない、 「仮面さん」 が、ほんとうの自分のようになっている場合です。

 

  自分でも気づいていないのでは、どうしてそれを発見したら良いのか? 人から指摘されても納得出来るはずがありません。

  「仮面さん」 こそ、カウンセリングなしには、自由になることは不可能かと思います。とは言っても、かなりの程度までは理解できます。幾つかの特徴を上げましょう。

  第一は、ほんとうのタイプとは違うものがあることです。

 

  例えば、 「行け行さん」 であれば、爽やか指数が非常に高い。特別にハード・スケジュールで、物理的に限界をはるかに越している場合は、さすがの「行け行さん」も爽やか指数が下がります。

 

  しかし、そんなに過激な生活でないのに、爽やか指数が低い場合の 「行け行さん」 は 「仮面さん」 かもしれません。

  しかも、ほんとうの 「行け行さん」 は、殆ど自覚症状がありません。だから、自覚症状の強く出る方は 「仮面さん」 の可能性があります。

 「クールさん」 は、 「仮面さん」 そのものといってよいでしょう。考えてみれば当然です。赤ん坊の時から、 「クールさん」 の筈はありませんね。子供の時は、D(自由気ままな子供) かE (人の評価を気にする子供)か、その両方です。だから途中からそうなったのです。

  同じことは、 「伝統さん」 についても言えます。子供の部分がなくて、親の部分だけというのがこのタイプの特徴ですが、生れた時から 「伝統さん」というのはないはずです。

 どうしてこのようなことが起こるのか。それは、簡単に言えば性格とは、D(自由気ままな子供)からでる不満と 、E(人の評価を気にする子供)からでる不安に、どう対応するか、どう対処するかという問題だからです。

 

 特に、 E (不安さん) の場合が問題です。E (不安さん) さんは、自分は間違っているかもしれないという気持で生きている。このままの自分ではいけない。変わらねばならないと思う。

  あるいは、自分のしたいことを抑えて生きています。我慢して生きている。楽しくはありません。世の中には我侭に楽しくやっている人も多い。

 

  気を使って生きているのに、気を遣っていない人のほうがうまくやっている。もうこんな生きかたはやめようと思うのも無理のないことです。

 一方、 D(不満さん) が仮面を被ることは少ないでしょう。 D (不満さん)さんは、自分が正しいと思って生きている。自分を変えなければと思うことは少ないはずです。

 

  言いたいことをいい、したいことをしているので、それが出来ている間は、変わろうとする必要を感じない。

 したいことが出来なくなった時でも、人に対して腹が立つことがあっても、自己反省能力が少ないので、自分を変えねばという意識は出ないことが多いでしょう。


  ということで、仮面を必要とするのは E (不安さん)が多く、D (自由気ままな子供) も E (人の評価を気にする子供) も両方ある場合でも、E(人の評価を気にする子供)が強くある方が多いでしょう。

  自分の不安を抑えたり、解消するために、貧しい時代の日本を生きた世代では 「伝統さん」 になることが多かったでしょう。

 

  しかし、現在は豊かな時代になったために、「伝統さん」は少なくなり、「クールさん」や、「ぼろぞうきんさん」や、「あんたが悪いさん」になり、ときには、「普通さん」や「行け行さん」 になることもあるでしょう。

  どのタイプになるかは、両親や教育、その他の環境によるでしょう。いずれのタイプになっても、自分の本来のタイプと違ったものですから、大変なエネルギーが必要です。

 

  いつも緊張状態にある。自律神経が過緊張して自律神経系失調症になってきます。自由さ、水みずしさ、豊かさ、温かさを失います。ほんとうの自分でないものに無理になれば、それらのものは失われます。

  他のタイプになろうとすることは、他人の山を登ることですから、いくら頑張っても他人の山です。自分の性格から自由になることは出来ません。一日も早く、仮面からほんとうの自分を発見しましょう。

● 現代人の5つの間違い


 生きている充実感が高いときには、失敗しても、すべて勉強になります。新しい発見であり、新しい人生の出発のきっかけです。

 

 しかし、充実感が低下しているときには、どんな小さな事でもストレスになり、悩みや苦痛になります。

 

 充実感の低下は、心身相関と生活習慣を悪化させ、自律神経失調症や生活習慣病をも発生させます。問題の解決とは、目の前の問題と悪戦苦闘して戦うのではなく、遠回りのように思えても、充実感を高めることが、根本的な解決方法なのです。

 

 では、この充実感が低下する原因は、何でしょうか。それは、現代の私たちが陥っている「5つの間違い」です。少し難しいことのように思われるかもしれませんが、理解さえ出来れば、そんなに複雑なことではありません。

 

 個々の悩みやストレスを、そのたびに解決しようとして、悪戦苦闘を繰り返していれば、人生が終わります。根本的に学び、充実感に満ちた人生へと出発しませんか。


◆現代人の「5つの間違い」

 

1.自分で生きている

 

2.人間は偶然によって発生した

 

3.死んだら灰になっておしまい

 

4.人間の価値は社会的な評価や力

 

5.他人の山を登るのが生きる道

 

 これらは、私達の常識ではありますが、医学的には、なんの根拠も証明もありません。私たちが信じ込んでいるだけにすぎません。

 

 第1に、私たちは、「自分で生きている」と信じています。しかし、 それは完全な誤りです。人間の身体は75兆個の細胞でできています。1個の受精卵から分裂し増加したのですが、一個といえど、自分で増やした覚えはありま せん。心臓は1日に10万回動いていますが、一回といえど自分で動かしたことはありません。

 

 しかし、「自分で生きている」と信じているのですから、自分で自分の命を守らなければならないという不安と恐怖、緊張と強迫観念に常に縛られます。このことが、心身相関を悪化させ体調不良を起こします。

 

 第2には、「偶然によって、アミノ酸や核酸ができ、細胞になり、魚 になり、動物になり、猿になり、人間になった」、そう信じています。しかし、それは証明されていません。

 

 さらに、それが偶然か必然かという問題は、科学の 対象にはなりません。論理的な判断の対象ですが、論理的には、偶然ではあり得ません。

 

 しかし、「偶然によって発生した」と信じているのですから、自分も偶然の産物でしかありません。自分の存在価値も偶然でしかありません。それでは、自分を喜べるはずはありません。常に、自信のない自分になります。

 

 第3には、「死んだら灰になっておしまい」、そう信じ込んでいま す。それは、「身体から私は発生した、だから身体の死は、私の死である」と信じているのですが、科学的な証明は一切ありません。

 

 科学は、長さと重さと速さ がある物を対象とする学問です。測定できる身体は対象にできますが、測定できない「私」や私の精神は対象にできません。私や精神が、身体から発生したのか どうかは、実験できないので、証明ができないのです。

 

 しかし、「死んだらおしまい」を信じているのですから、すべては虚無です。何をしても空しいのです。死は、最大のストレスです。

 

 意識的に、現代人は、死を 直視することを避けようとしていますが、それだけに、無意識の世界で広がり、はっきりとは原因がわからないうちに、生きるエネルギーが奪われていきます。 人生が、灰色に染まっていきます。

 

 第4には、「自分の価値は、社会の評価だ」と信じています。しかし、それは誤りです。社会は、10年もすれば変わってしまいます。その時その時に変化し不安定な社会は、人間の価値を決めるものではありません。

 

 しかも、社会の評価が、自分の価値ですから、成功しなくてはなりません。一回の成功では駄目で、成功し続けなければなりません。日本が、発展途上国の時に は、まだ可能だったかもしれませんが、現代のように、落ちていく国になれば、成功し続けることなど、もはや不可能です。

 

 しかし、それを信じているのですから、いつも人の眼が気になります。いつも不安定です。真面目であればあるほど、うつ病になります。

 

 第5に は、「他人の山」を登るのは、社会適応の生き方です。貧しい時代は、ご飯が食べられるだけで喜びですから、「他人の山」を登る生き方もできました。豊かな 時代になると、社会適応することは、自分を抑えることですから喜べません。

 

 社会的適応しようとする自分と、自分を生きたい自分が、常に葛藤し苦しみます。 新型ストレスです。しかし、社会の評価が欲しいのです。「他人の山」を登らざるを得ません。 

 

 このように、自分で自分の命を守るしかないという不安。しかも、自分は偶然の産物 に過ぎなく、大して価値の無い存在。さらに、決定的なことは、死んだらおしまいという虚無。

 

 そのなかで、社会の評価ばかりを気にして、「他人の山」を登り 続けている人間。それが、現代の私たちです。

 

 この現代人の5つの間違いの中にあって、私たちは、自由で、爽やかに、ウキウキとして、楽しく生きることなど到底できません。孤立と孤独、不安と不満と傷つく自分になって苦しまざるをえません。それは、当然のことと言えば当然なのです。

 

 豊かで自由な国に住んでいるのに、あまりにも悲しいことですが、解決することも脱出することもできません。現代人は、このまま、衰退して、滅びていくことになります。

 

 それが、事実であるのならまだしも、事実でも真実でもないもののために、衰退していくのだとしたら、充実感を失い、人生が暗くなっていくのだとしたら、絶対に受け入れることができないほど、悔しいことではありませんか。

 

 では、事実とはどのようなものでしょうか。単なるお話でも、自己説得でもなく、医学的に事実を確認することが大切です。 

 

 顕微鏡が使えるようになったのは、やっと150年前からです。 この150年に私達が知り得た事実は、素晴らしいものです。この医学的事実に立って真実を知りましょう。

 

 それが「かぎりなく優しい医学的事実の世界」です。これらによって、「7つの自由」を得ることを目指します。


1.世間体からの自由
2.人間関係からの自由
3.性格からの自由
4.過去からの自由
5.孤独からの自由
6.病気からの自由
7.老いと死からの自由

 

心を5つに分ける

 

 人間の心を5つに分けて見ていきます。親の部分が2つ、子供の部分が2つ、そして合理性の5つです。

 

 A(きびしい親)
 B(やさしい親)
 D(自由気ままな子供)
 E(他人の評価を気にする子供)
 C(合理性)

 

 性格は作られるものであることをまず理解してください。E(他人の評価を気にする子供)は、本来は自己防衛です。D(自由気ままな子供)は、欲求満足本能です。人間も生物ですから、この二つの本能がないと生きていけません。

 

 ですから、赤ちゃんのときは、文字通りE(自己防衛本能)と、D(欲求充足本能)だけです。この二つの本能を満たすために、つまり安心と満足を与えるために、両親は付きっ切りで面倒をみます。

 

 大きくなるということはC(合理性)が発達してきて、A(きびしい親)やB(優しい親)を身に付け、社会の中で生きていく能力を身につけるということです。親の部分というのは社会性ということですから、社会性を身に付けるのが成長のプロセスだといえます。

 

 こんなにも人間の数が増え、圧倒的な力を持つと、人間も動物の一種であるということを忘れてしまいますが、動物として見れば、人間は非常に弱い動物です。

 

 わが家のタラちゃん(シャム猫)でも鋭い爪をもっています。オードリー(ピレネーズ犬)は大きな牙をもっています。鋭い爪も牙もない、走るのも木登りもた いしてうまくない人間は、集団生活をしない限り、自分の身を守ることも、楽しむこともできません。

 

 つまり社会の中で欲しい物や欲望を充足し、自分の身を守 らねばならない。もう親が面倒をみてくれませんので、社会の中で自分でそれらを獲得しなくてはならないのです。

 

 だから、A(きびしい親)、B(優しい親)、C(合理性)がうまく成長しなければ、社会不適合が起こってくる、生きていくことが困難になってくるということになります。

 


◎自動車にたとえれば

 

 人間は、ものではありません。人間を物質と見ることは、大変な錯覚に陥ることになります。20世紀の最大の汚点だと思いますので、人間をものにたとえることは厳に謹みたいと思いますが、分かりやすくするために、あえて自動車にたとえますと、D(自由気ままな子供)はアクセルで、E(人の評価を気にする子供)はブレーキです。A(きびしい親)は交通規則であり、B(優しい親)は譲り合う気持ちです。C(合理性)は冷静さ、充実感がガソリンということになります。

 

 ただ、これだけでは自動車は走ることができません。運転手がいります。その運転手をFと呼んでいます。F(本当の自分)です。

 

 アクセル(自由気ままな子供)だけでは自動車は暴走するだけです。ブレーキ(人の評価を気にする子供)だけでは自動車は止まったままです。しかし、 アクセルとブレーキをうまく使ったとしても、それだけでは街の中を走れません。交通規則(きびしい親)を守らなければいたるところで衝突し、交通事故が起 こります。

 

 また、ルールだけでは、自己主張の摩擦が多くギスギスとして、うまく車が流れず渋滞が起こります。譲り合う心、思いやり(優しい親)が必要です。さらに、 冷静(合理性)でなければ、判断を誤り事故につながります。最後に、ガソリン(充実感)がなければ、自動車はただの箱で動けません。

 

 どの程度の早さで、どの程度の混雑の中を運転できるかは、A(きびしい親)、B(優しい親)、C(合理性)がうまく働いて初めて可能になります。社会性と 合理性があって初めて、社会の中で自分を実現(自由気ままな子供)でき、自分を守る(気にする子供)ことができます。もし、子供の部分だけだったとしたら どうなるでしょうか?

 

 

●A B C D Eの各々についての説明


◎A(きびしい親)

 

 まずA(きびしい親)の部分です。子供や部下に向かってきびしいく教育する部分です。規則を守ることを教えたり、躾をしなくては、子供は社会人にはなれま せん。部下にも仕事の仕方やお客さんに対する対応を教育しなければなりません。自分自身にとっても、自分の意見をはっきり言うこと、嫌なことはノーと拒否 できることは必要です。

 

 この部分が低い人は、子供や部下を教育できません。自分を主張することもできなくなります。
 

 しかし、長所は欠点であり、欠点は長所ですから、この部分が強すぎると子供や部下をつぶしてしまうかもしれません。

 

 相手の欠点ばかりが目に入り攻撃的になったり、相手の話を聞かず自分の意見ばかりを通そうとするようになったり、批評精神があるのは良いのですが、否定的な発言ばかりで相手を困らせ、人間関係がギスギスしたものになります。

 

 この傾向は、人間に対してだけではなく、見るもの聞くものすべてにたいしてです。建物を見ても、色々なプロジェクトを見ても、同じ傾向がでます。

 

 また、A(きびしい親)は自然のルールを教えるたり、守らせる役割もあります。炎のなかに手を入れれば火傷をする。池に落ちれば溺死する。その他、ライフ・スタイルが乱れれば病気になる。そのようなことにならないようにきびしく指導しなくては、子供の命は守れません。

 

◆A(きびしい親)のまとめ
 

・子供や部下に行儀や作法をしつける親の心して良いことと悪いことをはっきりと教える
・社会のルールを教える
・生命を守るための自然のルールも教える
・自分の考えをはっきり主張したり、イエス、ノーをはっきり言う
・こごと 説教 揚げ足 攻撃 警戒 陰口 軽蔑 いじめ 無視 差別 のけ者 指図 制約 脅迫 からかう 嫌み
・[人の欠点から見える→あなたは間違っている]

 

◎B(やさしい親)

 

 B(優しい親)は、まさに優しい親の部分です。包容力です。子供や部下のためになることなら、自分のことは後にして、何でもしてあげようという気持ちになります。相手を批判する気持ちや自分が犠牲になっているというような感じはなど全くありません。

 

 何かをしてあげることが、楽しくて、喜びなのです。このB(優しい親)がなければ、子供や部下は育ちません。きびしさも必要ですが、優しさがなければ人は育つことができません。
 

 また、相手と共にいることが楽しいので、この部分が高い人は社交的です。人間関係が暖かいものになります。

ただ、欠点ももちろんあります。この部分が強すぎると、溺愛になります。きびしさがないので、甘やかされるだけとなり、子供や部下は社会人として自立できません。

 

◆B(優しい親)のまとめ


・子供や部下を優しく育てる親の心
・愛情を持って見守る
・自分のためよりも相手のためにすることが楽しい
・相手のために気をつかう
・協調性があり友好的、社交的
・人の成長や幸せがうれしい
・人間関係が暖かい雰囲気になる
・見返りを期待する親切 溺愛 おせっかい 愛着 ごますり
・おせいじ こび 賄賂 おだてる 調子を合わせる 裏取引
・[人の長所から見える→あなたは正しい]


◎C(合理性)

 

 それからC(合理性)は、合理的に論理的に物を判断していく部分です。こうして今皆さんが本を読んでいるのは、C(合理性)で読んでいます。 この部分が低いと感情に流されてしまいます。

 

 しかし、逆に強すぎるすと、クールになりすぎます。何でも合理的な判断で片付けることになり、人間性が感じられなくなってしまいます。

 

◆C(合理性)のまとめ


・物事を合理的に判断し行動する機能
・ 一つ一つ論理的に考える
・科学的に考える
・いろいろな状況に惑わされず、冷静に行動する
・親や子供の感情に振り回されている時に、はっと我に返る
・自己正当化 自己説得 損得のみ 計算づく 人間味がない
・無感動

 

◎D(自由気ままな子供)

 

 D(自由気ままな子供)は、食べたいから食べる、遊びたいから遊ぶ、眠りたいから眠るという本能にちかいことから、人生を楽しむ、仕事も楽しむ、言いたいことを言うなど、大人になっても生き生きとしている自由気ままな子供の部分です。

 

 どんどん積極的に行動ができます。過去の風習や世間の評価などに気になりません。楽しいことが良いのです。前に進むことが楽しいのです。

 

 しかし、度が過ぎますと、周りの迷惑を考えない、単なる我がままです。いろいろなことを考えて行動できないので、単なる暴走になります。

 

◆D(自由気ままな子供)のまとめ


・活発な子供の心
・好奇心に満ちている
・生きていることが楽しい
・フロンティア精神で前向きに生きる
・行け行けどんどんの時に充実感を感じる
・古い道徳や周囲の人に気をつかうことなく、言いたいことを言ったり、したいことをする
・相手がどうであれ、自分が楽しければ機嫌がいい
・わがまま 気まま 移り気 つっぱり 強気 不平不満がんこ
・うぬぼれ 自信過剰 繊細さがない 無神経 傍若無人
・[わたしは正しい]

 

◎E(自己防衛本能)

 

 最後は、E(人の評価を気にする子供)です。これは人の評価を気にする子供の部分です。B(優しい親)が相手のために気を使うのに対して、Eは自分のために気を使う部分です。

 

 常によい評価を得ようとしていますので、人の目が気になる、人の評価が気になります。「あの人はどう思っているのだろうか? どう思っただろうか?」、ということが非常に気になる部分です。

 

だから、あまりE(人の評価を気にする子供)が強すぎますと、人の評価ばかり気にして、自分のしたいこともできず、言いたいことも言えません。

 

 しかし、Eがないと、Eの高い人の気持ちが分かりません。人からは嫌われて人間関係がうまくいきません。「あまりお付き合いしたくない」と周りから思われることになります。

 

 また、人の評価が気になるだけに、「今のままの自分で良いのだろうか?」と自己反省したり、人の意見に耳を傾けることができるので、人間の成長には必要な部分です。

 

◆E(人の評価を気にする子供)のまとめ
・良い評価を得ようとする子供の心
・自己反省したり自己改革したいという気持ち
・素直に人の言葉を聞く
・人の不安を思いやる
・自分がしたいことや、言いたいことを押さえ、内心は嫌でも「ハイ」という、
・上司や力をもった人の顔色を見て妥協する
・自分を押さえ過ぎると積もり積もって爆発する
・相手のためではなく、自分のために気をつかう
・いい子ちゃん 人見知り 遠慮がち 不安 小心さ 弱気
・自己嫌悪 自信喪失 神経質 プライド 優柔不断
・[わたしは間違っている]

 

 

● 対人関係と対自分関係について

 

性格分析のABCDEから、人に対する関係と自分に対する関係について見ていきます。
 

 まず、A(きびしい親)とB(優しい親)に注目します。A(きびしい親)の高い人は、相手の欠点から目に入ります。だから、どうしても「相手が間違っている」ということになります。
 

 B(優しい親)の高い人は、相手の長所から目に入ります。だから、「あなたは正しい」ということになります。
 

 この関係から、A(きびしい親)がB(優しい親)よりも高ければ、「あなたは、間違っている」という意識で生きています。

 

 B(優しい親)がA(きびしい親)よりも高ければ、「あなたは、正しい」という意識で生きていることになります。これが対人関係に対する態度です。
 

 次は、自分に対する態度です。D(自由気ままな子供)とE(人の評価を気にする子供)に注目します。

 

 D(自由気ままな子供)の高い人は、「わたしは、正しい」という意識で生きています。自分が正しいと思っているから自由な行動ができるのです。

 

 一方、E(人の評価を気にする子供)の高い人は、「わたしは、間違っている」という意識で生きています。
 

 この関係から、D(自由気ままな子供)が、E(人の評価を気にする子供)より高い人は、「わたしは正しい」という意識を持って生きています。

 

 E(人の評価を気にする子供)が、D(自由気ままな子供)より高い人では、「わたしは間違っている」という意識で生きていることになります。
 

 以上から、4つの態度が生まれます。
 

 「あなたは正しいし、わたしも正しい」、「あなたは正しいが、わたしは間違っている」、「あなたは間違っている、しかし、わたしは正しい」、「あなたも間違っているし、わたしも間違っている」です。
 

 この点に注目して、10の性格を見直してください。自分に対する態度と、相手に対する態度によって、性格ができあがっているのに気がつかれるでしょう。 より明確に、おのおのの性格が理解できるようになるでしょう。

 

 

 (にせもの)というのは、一見、本物のように見えるが、よく見ると、違うというものや、本当ににせものというもので、性格分析には、(にせもの)という現象が、多く見られます。と言うよりかは、(にせもの)の方が、多いかもしれません。

 

 この分析が必要になるのは、たとえばA(きびしい親)を見ると、「なるほどと思えるきびしさもあれば、どうもあげ足を取っているだけのようなきびしさ、自分のうっぷんを晴らしているだけのようなきびしさ」もあります。
 

 B(優しい親)についても、「本当に相手のことを考えてしている優しさもあれば、自分の損得でしているような優しさ、押しつけ、おせっかいのような優しさ」もあります。
 

 それから合理的といっても、たとえば泥棒さんは非合理的かと考えると、ある面では大変合理的です。夜中に人の居ない所へ入る、巧みに錠を開ける、そういう面では合理的だが、捕まったら元もこもないという面からは、全然合理的ではありません。
 

 このように、A(きびしい親)、B(優しい親)、C(合理性)にはなるほど、(ほんもの)と思えるものもあれば、(にせもの)も混じっています。このにせものを見抜いていくことにより、より本当の自分を知ろうというのが、(にせもの)分析なのです。
 

 性格分析のA(きびしい親)、B(優しい親)、C(合理性)、D(自由気ままな子供)、E(人の評価を気にする子供)は、生きている充実感があるときには、(ほんもの)ですが、充実感がなくなると(にせもの)になります。
 

 本来のA(きびしい親)の特徴は、『社会のルールを守る。無いときは、ルールを創る』という機能です。社会だけではなく、『自然のルールも守る。教える』という機能もあります。
 

 人間は、集団生活でしか生きていけない動物です。動物という面では、人間は最も弱い存在です。外敵から身を守り、衣食住を確保するためには集団生活が必要です。つまり、社会ということですが、この社会の基本は、「一人一人が自由であり平等でありたい」ということでしょう。
 

 そのためには、ルールが必要です。自分だけは自由でありたい、というのでは本当の社会は成り立ちません。また、社会のルールを教えてあげないと子供や部下は、社会のなかで衝突や葛藤を引き起こし適応できなくなります。
 

 さらに、「池に落ちれば溺れる。火に手を突っ込めば火傷をする」といったことから、健康に関する知識まで、自然のルールも必要です。
 

 一方、生きている充実感が無くなると、A(きびしい親)は攻撃的になります。自分のしたいことを妨げるものを倒そうとする。からかう。脅す。あるいは、自分を守るために攻撃する。揚げ足を取る。警戒する。そういう面がでてきます。
 

 B(優しい親)の本来の特徴は、『見返りを期待しない優しさ』です。ルールだけでは、社会はうまくいきません。思いやりや譲り合う心が必要です。
 

 代償を期待しない優しさ、そんな物が世の中にあるかと言われますと、ほとんど無いのですが、やはり本当の特徴は? と考えますと見返りを期待しない優しさといういうことでしょう。「自由・平等と思いやり」、それらがそろって初めて、本当の社会が成立します。
 

 一方、充実感が失われると、B(優しい親)は自分の利益を得るための親切や、自分を守るための親切になります。押しつけの親切やお節介になるということです。
 

 A(合理的な部分)の本当の特徴は、『ハッと我に返る。原点に戻る』機能です。
 

 感情や理屈にとらわれているところから、ハッと我に返る。なにが原点を顧みる機能と言ってもいいですね。
 

 一方、充実感が失われると、自分を正当化するための自己弁護や自分を無理に納得させる自己説得のための理屈になります。
 

 D(自由気ままな子供)は、『欲求充足本能』です。食べたい、遊びたい、眠りたい、言いたいことを言い、したいことをしたいという欲望を満たす本能です。
 

 このままでは本能ですが、生きている充実感があるときは、前進性になります。一方、充実感を失うと、「欲しいものが手に入らない、満たされない」という気持ちが強くなり、「不満さん」になります。
 

 E(人の評価を気にする子供)は『自己防衛本能』です。自分を守ろうとする本能です。E(人の評価を気にする子供)をこのように理解すると非常に分かり易くなると思います。人の目や人の評価をなぜ気にするのか、という理由もよく理解ます。
 

 生きている充実感があるときは、自己反省能力、内面の世界、人の不安を思いやれる能力ですが、充実感を失いますと、「自分を守れなくなる、どうしょう」という気持ちが強くなり、「不安さん」になります。
 

 現実の社会の人間関係では、この不安と不満が(にせもの)現象の主役になります。
 

 まず第一に、自分が「不満」さんか、「不安さん」かを決めてください。嫌なことや困難なことが起きたときに、不安を感じる人は「不安さん」です。一方、不満を感じる人は「不満」さんです。さらに不安も不満も両方感じるという人は「不安と不満さん」です。この3つのタイプに分けられます。
 

 これの判別には、むしろ幼稚園や小学校など、小さいときのことを思い出していただくほうがよいでしょう。何十年も生きていますと、なかには、自分を作り替えている人もいます。正反対の性格になっている人もいます。だから、現在の自分がどう感じるかということよりも、幼い日の自分を思い出していただくほうが正確になります。

 

 この不安と不満が、自分の不安と不満を満足させるために、A、B、Cを、使うところから、にせもの現象が発生します。

 

 この(にせもの)を止めることなく、続けていくと、人間関係を壊して、自滅のシナリオへと進行していくことになります。本人は、自覚していないことが多いので、大変問題なのですが、早く、性格分析を学び、(にせもの)を止めなければ、人生を壊してしまうことも起こります。(にせもの)を見抜く能力は、大変重要なのです。

   性格分析のグラフで、A(きびしい親)が不自然に低い方がいます。

  「本当に低いのでしょうか?」とお尋ねすると、「いえ、本当は高いのです」とはっきり答えられる方は、解決しやすいものです。問題なのは、自分でもAが低いと思いこんでいる方です。

  Aの特徴は、緊張です。Aは、人の欠点を見る能力ですから、人が敵に見えます。Aの人にとって、人の中にいるというのは、敵の中にいるということですから、緊張します。対人関係で緊張を感じる人は、性格分析のグラフで、いかにAが低くても、本当はAが高い人です。

  Aが高いと攻撃したり警戒したりしますので、人間関係が悪化します。人間関係が悪化することは、E(自己防衛本能)の高い人にとっては、大変な不安です。それは、つらくて苦しいので、Aを下げて、B(やさしい親)を高めます。

  本当は、Aが高いのに、自己防衛のために Aをさげている、特に長年にわたってそうしてきているために、無意識になっている場合が大問題です。本人は、Aが低く、Bが高いと信じています。これを「内なるA」と呼んでいます。

  Aが高い場合は、人の欠点が見えます。人は、自分の中にあるものしか見えませんので、人も自分の欠点を見ていると感じます。人の視線を感じて苦しみます。

  しかし、人の欠点が見える以上、相手は敵です。敵に対しては警戒します。口に出すかどうかは別として、攻撃もします。長期的な目で見ると、警戒や攻撃だけでは自滅のシナリオになるのですが、短期的にはなんとか自己防衛はできるということになります。

  しかし、Aがありながら、自分はBの人であると信じている場合は、本当に苦しくなります。実際はAがあるのですから、人が自分を批判しているように感じます。不安が押し寄せてきます。批判的な人の視線が、機関銃の弾や矢が飛んでくるような感じがします。人の目が自分を刺すように感じます。

  しかも、それに対して、Bで反応するのですから、自己防衛できません。対応がBですので、相手を善人と見なければなりません。見なければというよりも無意識に善人と見て、善意、好意を持って対応しようとします。無警戒で優しく接しようとします。これでは打たれるばかりで、可哀相すぎます。

  「腹が立つ。無神経な人間だ。さっさと死ねばよいのに!」、実際に殺せば勿論問題ですが、心の中で一度や二度、そのように思ったことがあったとしても決して異常ではないでしょう。一度もそのように思ったことが無いという方のほうが異常でしょう。

  人間は、決して出来の良い存在ではありません。人間の過去の歴史は、殺人の歴史です。人間の最大の敵は人間でした。現在でも世界の各地で戦争をしています。その過去から私たちの性格はメッセージを受け継いで出来ています。

 

  私たちのA、B、C、D、Eは、そのようなもので出来上がっています。特に、日本は、「村八分型集団意識」の国ですから、日本人はAが高いのが普通です。

  だから、Aがないはずはないのですが、無意識にAを抹殺していますから、自己防衛ができません。ただただ攻撃され、抵抗できずに倒れるだけとなります。疲労感が強くなり、無気力となり、身体が動きません。

  原因が分からないので、自分ではどうして良いか分かりません。学校にも、職場にも行けなくなります。本人は原因に気が付きませんから、がんばろう、がんばろうとします。しかし、すればするほど逆効果です。エネルギーを消耗して行くだけになります。

  Bだけの人であれば、人の長所しか見えませんから、人も自分の長所を見てくれているという気持ちがします。人は善人です。当然、だまされ放しになるのですが、本人はだまされたということすら気が付きません。人の中にいるのは楽しいことで、疲れることはありません。

  Aを持つことは疲れることです。しかし、Aも素晴らしい能力です。必要な能力です。まず、「内なるA」に気づきましょう。そして、Aも必要な能力だということを理解して、自分のAを決して責めないでください。

  性格分析でのEの本体は、自己防衛本能ですから、あって当然のものです。ただ、それが強くなると、「不安さん」になり、人の評価ばかり気にするようになります。人の目ばかり気になり、少しのことでも不安になり、生きにくくなります。

では、なぜEが強くなるのでしょうか。それは、幼いときに不安体験をしたからです。大きくなってからの体験は、自分が大きいですから、あまりこたえません。やはり、少しのことでも生命の危険が及ぶ幼児期の体験です。

しかも、それは存在の否定体験です。単に怖いとか、恐ろしいということではなくて、「私は、両親にとって、不必要な存在ではないのか? じゃまな存在ではないのか?」という体験です。

大人にとって大したことではなくても、存在の否定体験などというたいそうな問題ではなくても、ごく常識的な言葉や行動であっても、子供にとっては、自分の存在を否定されていると感じることがあります。

上昇志向の強い家庭は、子供にとっては「存在の否定」です。勉強ができ、社会的に立派とならない限り、親から存在を認めてもらえないからです。「世間体」を大事にする家も、子供にとっては「存在の否定」です。お父さんやお母さんは、自分よりも「世間体」を取るからです。

男の子がほしかった。女の子の方が良かったということも、そうです。性別は完全な存在の否定です。仕事優先の親もそうです。私と遊ぶよりも仕事を取るのですから。病弱な姉を大事にする親も、そうです。私よりもお姉さんが大事なのですから。

物は何でも与えてくれるが、叱ることのない親も、そうです。叱ることすらないほど、存在を無視されているのですから。自由な家庭というのは、存在感の希薄な家庭ということでもあります。

大きくなれば、愛情がないのではなく、いろいろな事情があってそうだったのだと分かります。しかし、大きくなって理解できたとしても、それは意味がありません。幼いときには、幼いときに感じたことがすべてです。その時に感じた不安が、根底に根付き、その後の人生の出来事の度に大きく育ってきたのですから。

さらに、時代の変化から来る問題があります。貧しい時代では、食べることで精一杯でした。餓死する危険がいつもありました。親は精一杯がんばって、子供に食べ物を与えました。それが、親の愛情表現でした。子供も空腹ですので、ご飯を与えてくれる親は、愛情あふれる親と感じられました。

貧しい時代では、お父さんが仕事で家にいなくても、ご飯を食べさせてくれるためにがんばって働いてくれているということが分かります。お母さんが、世間体ばかり気にしても、自分や家族を守るために気苦労してくれているということが理解できます。

貧しい時代は、親の愛が確認しやすい時代です。ご飯を食べさせてくれる、それで親の愛を確認できました。しかし、豊かな時代になれば、ご飯は当たり前です。物によっては、愛の確認はできません。外で仕事ばかりしている親は、自分よりも仕事が大事だと映ります。世間体ばかり気にしている親も、自分よりも世間体のほうが大事だと感じます。

しかも、現在の日本の親は、貧しい時代に生きた親です。もっと若い世代でも、物を与えるのが愛情表現だった親に育てられていますので、愛情表現は物です。しかし、子供は物には飽きています。物では、愛情表現とは感じられません。ここに、愛情欠乏症が起こります。急速に高度成長をし、「物の時代」から一挙に、「心の時代」に到達した日本の特殊事情です。

もう一つの存在の否定体験は、死です。私たちの死生観は、「死んだら灰になっておしまい」ですから、死は、完全な存在の否定です。幼いころに、病弱だったとか、家族の人や親しい人が死んだという体験は、強い存在の否定体験になります。親の愛の確認ができないということと、死の不安が、存在の否定体験を形成するのです。

ただ、「存在の否定体験=環境+自我の強さ」です。自我が非常に強い方は、親の愛の確認ができないことや死の不安という環境による存在の否定体験が弱いものであっても、自我が強ければ、強く存在の否定体験と感じます。

存在の否定体験を考える場合は、常に、環境と自我の強さという両面から見ていかなくてはなりません。環境の面では、存在の否定体験に当たるものはたいして強くなさそうなのに、Eが非常に高い方は、自我の強さという面から見ていくと、より正確に理解できるでしょう。

 性格分析で、E(自己防衛本能、不安)が高い場合、簡単に原因が明らかになる人と、なかなかはっきりとしない人がいます。

 

 原因が分からない場合は、前に進むことはできません。Eが高い以上、時間をかけて、その原因を探る必要があります。

 

 豊かで安全な日本に住む私たちが、実際に餓死するとか、命を狙われるということはありませんので、動物としての自己防衛本能が強く動くことはまずありません。

 

 私たちのEは、幼いころの存在の否定体験によって、拡大した自己防衛本能であり、不安です。

 

 どんなに家が貧しくても、親から罵詈雑言を浴びせらたり、叩かれたりしても、「自分は親にとって宝だ。」と確信している子供はD(欲求満足本能)、不満)です。

 

 一方、どんなに裕福な家で、どんなに親から気遣いを受けて育てられても、「お父さんは、自分よりも仕事を取るかもしれない。お母さんは世間体を取るかもしれない。他の兄弟のほうが大事かもしれない。長男だから大事にされているだけかもしれない。勉強ができるから可愛がってくれているのかもしれない。女の子あるいは男の子であったほうが良かったと思っているのではないか」などと感じる子供はEになります。

 

 もう一つのEが高くなる環境は、死の不安です。自分が病弱だったり、兄弟や両親が病気をしたり亡くなったということがあると、存在の不安が来て、Eが高くなります。

 

 それでも、思い当たるものがないという人もいます。これが、「隠されたE」です。

 

 「私は、お父さん、お母さんから十分愛されました。愛の欠乏など感じたことはありません。」という人がおられます。よく聞いていくと、大変「良い子」です。成績も良く、親に心配をかけるようなことをしたこともありません。兄弟の面倒もよく見ました。しかし、Eなのです。

 

 この人の場合は、それほど完璧に「良い子」にしていなければならないと感じるほど、Eだったということでしょう。 

 

 「お父さんお母さんに問題はなかったのですか?」と聞いてみても、「大変良い両親でした。」という返事です。お父さんお母さんの悪口を言う子は、「良い子」になれません。お父さんお母さんが悪いなどという感情は、無意識のうちに完璧に封印されます。

 

 「存在の否定体験=環境+自我の強さ」です。

 

 現代人の私たちは、皆が「自我」で一杯です。皆が「自我」で一杯なために、自分が「自我」で一杯だということに、なかなか気づけないことが少なくありません。

 

 Eが高いのに、存在の否定体験がはっきりしない方は、まず、自分の「自我」は、非常に強い「自我」なのではないかと、よくよく自分を見つめてください。

 

 「自我」が弱いと自分で思っておられる方でも、Eが強いために自己主張できないだけかもしれません。よくよく自分を見つめると、自分のことしか考えていないかもしれません。自分のことしか考えられない、それはまさに「自我」で一杯ということです。

 

 そして、「自我」がとても強く、その分、何気ないような親の言葉や行動にも、存在の否定体験も強烈に感じたということでしょう。

 

 心の中では、本当は寂しいのかもしれません。もっとわがままを言って甘えたいのかもしれません。しかし、それを出せば「良い子」ではいられなくなると思いこんでいるとしたら、随分悲しい子供です。

 

 さらに、そんな自分や親を無意識のうちに問題ないと思いこんでいるとしたら、なおさら寂しいものがあります。

 

 もし、映画でそのような子供の姿を見れば、きっと可哀想になって涙するでしょう。客観的に見れば、そうでしょうが、自分のこととなると、そういうことは一切ないと思っています。それが、「隠されたE」です。

 

 「隠されたE」は、この他にもいろいろとあります。それは、簡単には明らかにできません。自分自身が、それを見たくないのですから、何ども、繰り返して心の中を見つめなければなりません。心の奥底に閉じこめられた本音を聞かなくてはなりません。

 性格分析で、A(きびしい親)は、相手の欠点を見る能力です。B(優しい親)は、相手の長所を見る能力です。

 

 性格分析のグラフで、このAとBが接近している方の場合は、一歩深くグラフを読む必要があります。

 

 A(きびしい親)だけが強い人は、本人はそれほど苦しみません。相手が悪いと思えるのですから、責任は相手です。実際に口に出すかどうかは別として、とことん相手を攻撃しきれます。

 

 一方、B(やさしい親)だけが強い人も、それほど苦しみません。たとえだまされていても、だまされているということがわかりません。相手の長所しか見えないのですから、相手は素晴らしい人です。素晴らしい人のために、自分を犠牲にすることは、心の動きとしては自然です。

 

 問題は、両方とも高い人の場合です。この場合は非常に苦しい葛藤の状態に陥ります。

 

 A(きびしい親)が強いので腹が立ちます。許せません。しかし、B(やさしい親)も高いので、相手が弱くなると可哀相になります。

 

 腹が立ち、心の中で攻撃すればするほど、追いつめれば追いつめるほど、可哀相だという感情も強くなります。

 

 対人関係で、態度が決められません。常にA(きびしい親)とB(やさしい親)との間で揺れ動きます。憎しみといとおしさ、嫌悪と哀れみ、こうして愛憎の渦の中に巻き込まれていきます。際限のない渦です。

    A(きびしい親)は悪いもの、B(やさしい親)は良いものと思われていますが、そう簡単ではありません。

 

 日本は、村八分型の社会です。しかも、それは意識される以上に、無意識な感情となって、私たちの日常を支配しています。

 

 ですから、 日本では、A(きびしい親)もB(やさしい親)もやはり「村八分型集団無意識」のAとBであることから逃れることはできません。

 

 「村八分型集団無意識」のA(きびしい親)は、掟です。従わなければ村八分にするという攻撃、いじめです。飴とムチのムチに相当するものです。これはとことん私たちの骨の髄にまで、不安と恐怖の種として入っています。

 

 一方、B(やさしい親)は、素直に従う者については、身内であり同胞ですから優しくするという飴にあたるものです。どんなに反抗しても、悔い改めて、涙して「ごめんなさい」と言えば許されます。

 

 ですからB(やさしい親)といっても、本当のB(やさしい親)ではありません。自己防衛のためのB(やさしい親)です。私たちは、自己防衛のために、このB(やさしい親)を学び身につけました。

 

 「問題が起こっても、ことを荒立てないでおこう。波風を立てないでおこう。そうすることが大人であり、道徳的であり、良いことなんだ。がまんして優しくしていれば必ずうまく行くのだ」とよく言われます。自分でもいつも言っていることかもしれません。しかし、それはまさに「村八分型集団無意識」のB(やさしい親)です。

 

 このB(やさしい親)は、問題を複雑にします。不幸はこのB(やさしい親)から起こると言って良いことも少なくありません。A(きびしい親)だけなら問題は単純です。憎しみ、攻撃しかありませんので、葛藤は起こりませんが、B(やさしい親)がありますと、AとBとの葛藤が起こります。

 

 相手が弱ってくると、攻撃をすることが可哀相になります。憎んでいても不憫です。見捨てられません。抱きしめてやりたくなります。しかし、相手が元気になると、また従来の憎しみが戻ってきて許すことができません。憎い愛しい、愛しい憎いの繰り返しで、愛憎の渦になります。

 

 さらに、「村八分型集団無意識」では、B(やさしい親)は、価値あるものと教えられています。「A(きびしい親)を下げて、B(やさしい親)を高めることが人間として良いことだ。それができない人間は悪い人間だ」と教えられています。

 

 ですから、A(きびしい親)で相手を攻撃する自分は悪い人間という意識に悩まされなければなりません。自己否定です。

 

 愛憎と自己否定で、パニックに陥ってしまいます。まさにそれは、本人にとっては大変なパニックです。そして、その問題の原因は、相手にあると思っているでしょうが、しかし、それは自分自身の中にあるものです。自分の中にないものは絶対に見えません。憎しみも愛おしみも自分の中にあるものです。

 

 客観的に見れば、相手は何も感じていないかもしれません。ただただ自分勝手に生きているだけかもしれません。あるいは、こちらの性格を見抜いて巧みに利用し操っているだけかもしれません。

 

 大事なことは、性格分析で相手の性格を客観的に知ることと、B(やさしい親)は素晴らしいものですが、それは、本当のBであるかぎりにおいてという条件が付くことを理解することです。ここに本文を記入してください。

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